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薬師寺デジタル絵巻

令和7年度 文化財多言語解説整備事業

薬師寺の物後たりへようこそ

天武天皇が皇后の病を癒すため

創建した薬師寺は、

人々の祈りとともに

一三五〇年の時代を歩んできました。

火災や戦火、地震という

数々の試練を受けながらも、

薬師三尊像や東塔は

創建時からの姿を今に伝えています。

さあ、古の祈りと現代の歩みが交差する

薬師寺の歴史絵巻へ出かけましょう。

第1章

創建

白鳳の祈り

「本尊薬師如来像造顕」
『薬師寺縁起絵巻』(奈良市指定文化財・1716年)

遠い昔、白鳳の空の下。

天武天皇は静かに天を仰ぎました。

皇后の病が癒されることを、

ただひたすら願って――

その想いから生まれたのが、

薬師寺です。

当初、藤原京の右京八条三坊の地に

祈りと美しさがこめられた

寺院が誕生しました。

天武天皇の願いは『日本書紀』や

東塔檫銘に記されています。

創建の立役者
天武天皇
小倉遊亀画伯奉納
飛鳥時代
680
天武天皇、皇后鸕野讃良皇女(のちの持統天皇)の病気平癒のために薬師寺建立を発願。
薬師寺のはじまりを伝える
東塔檫銘(とうとうさつめい)
薬師寺はじまりの地
本薬師寺跡(もとやくしじあと)
本薬師寺東塔跡
「祚蓮和上定中に龍宮伽藍を見る」
『薬師寺縁起絵巻』(奈良市指定文化財・1716年)

しかし、天命は無常――

六八六年、天武天皇はこの世を去ります。

悲しみに沈むなか、

皇后の鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)

即位します。持統天皇です。

持統天皇は亡き夫の想いを胸に、

薬師寺の完成を目指し、

伽藍と仏像の造立に尽力されました。

68699
天武天皇、
飛鳥浄御原宮にて崩御。
697729
『日本書紀』によれば持統天皇のために仏像が造立され、この日、薬師寺で開仏眼会が行われる。この際、開眼されたのが本尊の薬師三尊像(国宝)と考えられている。
国宝 薬師如来座像
「本尊薬師三尊十二神将像安置」
『薬師寺縁起絵巻』(奈良市指定文化財・1716年)
先帝の遺志を胸に
持統天皇
小倉遊亀画伯奉納
第2章

薬師寺のお引越し

平城遷寺と東塔の建立

「百済国王献物を奉ずる」
『薬師寺縁起絵巻』(奈良市指定文化財・1716年)

七一〇年、都は平城京へと遷ります。

これにともない、七一八年、

薬師寺も平城京の右京六条二坊、

現在の地へと遷されます。

本尊 薬師三尊像は藤原京から平城京まで

七日間をかけて運ばれたと伝わっています。

また、薬師寺は僧尼を管理する僧綱所として

わが国を代表する寺院のひとつとなりました。

集った僧たちは人びとの健康と

世の平安を祈るのでした。

奈良時代
730
平城薬師寺の伽藍の整備が進み、東塔(国宝)が建立される。
「凍れる音楽」とよばれる
国宝 東塔
「東塔の造営」
『薬師寺縁起絵巻』(奈良市指定文化財・1716年)

天平時代の薬師寺は

人びとの祈りの場として栄えました。

今も薬師寺は白鳳・天平の

華やかな文化を伝えています。

724
吉備内親王が母・元明天皇のために、このころまでに東禅院(東院堂の前身)を建立。
7世紀後半 8世紀前半
聖観世音菩薩像(国宝)が造立される。
白鳳のおもかげ 国宝 聖観世音菩薩像
753
文室真人智努(ふんやのまひとちぬ)、仏足石(国宝)を造立する。このころ仏足跡歌碑(国宝)も造立される。
日本最古の仏足石
国宝 仏足石(上段)
国宝 仏足跡歌碑(下段)
772
光仁天皇御願により修正会を始める。このころ吉祥天女画像(国宝)が造立される。
五穀豊穣の女神
国宝 吉祥天女画像
8世紀
大講堂の弥勒三尊像(重文)が造立される。
唯識の教主
重文 弥勒三尊像
「平城薬師寺」
『薬師寺縁起絵巻』(奈良市指定文化財・1716年)
第3章

平安時代の薬師寺

苦難と復興のはじまり

「天禄の回録」
『薬師寺縁起絵巻』(奈良市指定文化財・1716年)

都が平安京に遷っても仏教の都だった奈良では

国を護るための祈りがささげられました。

神にも仏にも帰依する神仏習合がすすみ、

薬師寺は神仏がつどう寺になっていきます。

平安時代
830
仲継律師の発願により護国の法会として最勝会が始められる。
889
奘紹律師、八幡大神を勧請して休ヶ岡八幡宮を造営する。八幡三神像(国宝)もこのころに造立される。
お坊さんの姿の神様 国宝 僧形八幡三神像
「最勝会の由来」
『薬師寺縁起絵巻』(奈良市指定文化財・1716年)

平安時代、薬師寺を大火が襲いました。

赤く揺れる炎が、

講堂や回廊を包み込む姿に、

多くの人の嘆きが響きます。

相次ぐ災害をまえに、汗と涙を流しながら、

僧たちは寺の再建に力を尽くしました。

973
「天禄の回録」
食堂の北側の十字廊から出火し、講堂・三面僧坊・回廊・経蔵・鐘楼・中門・南大門などを焼失。その後、一〇一三年ごろまでに復興は完了する。
伽藍の半分が炎上
天禄の回録
989
大風で金堂の上層が吹き飛ぶ。しかし、なんと木材や瓦などは無事で、早急に修復された。この伝説は『今昔物語集』などにも語られている。
「大風により金堂吹倒る」
『薬師寺縁起絵巻』(奈良市指定文化財・1716年)

この時代、薬師寺では伽藍の再建とともに

多くの法会がはじめられ、

そのいくつかは今も続けられています。

1107
堀河天皇の御願により修二会に造花が献じられる。これより薬師寺修二会が花会式と呼ばれるようになった。
1061
慈恩会が始められ、このころ慈恩大師像(国宝)が描かれる。
法相宗をつくった名僧
国宝 慈恩大師像
「花会式の様子」
『薬師寺縁起絵巻』(奈良市指定文化財・1716年)
第4章

戦火をくぐり抜ける薬師寺

伽藍復興の願い

「薬師寺伽藍絵図」

時は流れ、鎌倉の世――

薬師寺では東院堂が再建され、

仏法を守護する四天王が造られました。

この時代を生き抜いた人々の祈りと技を宿し、

今も変わらぬ姿で寺を見守っています。

鎌倉時代
1285
東院堂(国宝)が再建される。
1289年頃
東院堂 四天王像(重文)を造立する。
大仏殿の四天王にそっくり 四天王像のうち 増長天
鎌倉和様の教科書
国宝 東院堂
「薬師寺伽藍絵図」

室町時代、薬師寺はまたもや

災厄に見舞われるのです。

地震に、大風に、

そして人びとの争いにまきこまれます――

傷ついた薬師寺の復興のために

歴史上のあの人たちも動きます。

室町時代
1361
南海地震により金堂上層は傾き、中門などは倒壊。東塔西塔は、一方の九輪が落下し、一方の相輪部はゆがむ。
1455年頃
大風により金堂・南大門が倒壊する。
1466年頃
足利義政、金堂復興の勧進
のため薬師寺船を朝鮮に派
遣。朝鮮国王に支援を依頼。
1528年頃
「享禄の兵火」
筒井氏と越智氏の合戦により金堂・講堂・中門・西塔・僧坊などが焼失。薬師寺の歴史のなかで最大の火災。
焼失した西塔の仏様
重文 西塔跡出土塑像残欠
大永四年勧進帳
薬師寺金堂東西両塔再興勧進状

戦乱ののちも、僧たちは

再建の希望を捨てませんでした。

その努力は幾世代にもわたって

つながっていくのです。

安土桃山時代
1600
増田長盛の寄進により仮金堂(旧金堂)が上棟。
仮金堂(旧金堂)
1603
豊臣秀頼により休ヶ岡八幡宮社殿(重文)が再建。
重文
休ヶ岡八幡宮社殿
『薬師瑠璃光如来本願功徳経』1538年開版
江戸時代

江戸の世になり、薬師寺は何度も

伽藍再興の勧進を幕府に願い出ています。

僧たちは各地で勧進を募り、

少しずつ復興と修理の歩みを進めます。 

かつての姿を取りもどすことを願いながら――

1644
東塔が傾いたため、本多政勝の寄進により東塔の修理が行われる。
江戸時代の薬師寺
1808
東塔の相輪が傾き、内部に雨漏りが起こったため、この年、東塔の修理が行われる。
痛々しい東塔
文化四年 修理願控
1852
およそ三〇〇年ぶりに講堂が再建される。
艱難四十五年
旧講堂
長澤蘆雪「松虎図」旧福寿院障壁画(画像:奈良国立博物館)
第5章

ゆらぐ千年の寺

明治の動乱と荒廃

壬申検査で撮影された古写真

明治維新を迎えると、寺領の没収・神仏分離

薬師寺はまたもや大きな試練に見舞われます。

伽藍の修理もままならず、

静かに荒廃の時を刻んでいきます。

明治時代
1872
はじめての文化財調査「壬申検査」が行われる。
軒先に支え棒がされている東塔
明治・大正期の薬師寺
壬申検査で撮影された古写真
第6章

白鳳回帰の時

お写経がつなぐ祈り

昭和40年頃の薬師寺

昭和の時代、二人の管主(住職)が

薬師寺のために心血を注ぎました。

鬼と恐れられた学僧 橋本凝胤と

その弟子 高田好胤です。

昭和時代
1939
橋本凝胤が管主に就任。戦中・戦後の厳しい時代のなかで伽藍復興のために弟子の育成に精魂を傾ける。
鬼と恐れられた学僧
橋本凝胤
1967
高田好胤が管主に就任。副住職の時には修学旅行生への法話を始め、また創建当時の金堂を復元すべくお写経勧進に邁進していく。
薬師寺中興の祖
高田好胤
1968
「百万巻写経による金堂復興勧進」をはじめる。薬師寺の伽藍復興のはじまり。
お写経道場で法話をする高田好胤

高田好胤は伽藍の復興をまえに

誰もが参加できる方法を考えます。

それはお経の文字を書写する

「お写経」でした。

お写経を書写していただき、

ご納経料を伽藍復興とする、

例のない計画でした。

高田好胤は百万巻のお写経の結縁のために、

各地でほとけごころの種まきを行いました。

1976
前年に百万巻写経勧進
を達成し、この年、
金堂が復興される。
1981
西塔が復興される。
1984
中門が復興される。
金堂
西塔
1976年
金堂落慶法要
のようす

お写経勧進の力によって

進められる伽藍の復興は、

享禄の兵火から五〇〇年を

迎えようとする

現在も続きいています。

今も白鳳様式の大伽藍は

人びとの祈りの力によって

復興を続けています。

平成時代
2003
大講堂が復興される。
2015
食堂が復興される。
2023
国宝東塔解体修理が完了し、落慶法要を行う。
大講堂
2023年 国宝東塔落慶法要のようす
第7章

新しい文化をはぐくむ寺

いにしえの心を未来へ

最勝会

世界遺産に登録されている薬師寺には、

今日も多くの人々が訪れ、

仏様に手を合わせます。

薬師寺は文化財を守るだけの場所ではなく、

現代の人びとの祈りとともに歩んでいます。

1991
玄奘三蔵の頂骨を祀る玄奘三蔵院が建立される。
1998
世界文化遺産「古都奈良の文化財」に登録される。
玄奘三蔵院
玄奘塔
玄奘三蔵院伽藍

復興された伽藍では、

ながらく途絶えていた法会や芸能がよみがえり、

古代の文化の彩りを添えています。

創作伎楽
「三蔵法師求法の旅」
最勝会
創作伎楽「三蔵法師求法の旅」

そして現代の文化を生み出し、

伝えていく場所が薬師寺です。

現代の芸術家によって奉納された作品が

現代の祈りを未来へと継承します。

平山郁夫画伯『大唐西域壁画』
「西方浄土須弥山」
田渕俊夫画伯
『阿弥陀三尊浄土図』
『仏教伝来の道と薬師寺』
細川護熙画伯
『東と西の融合』
中村晋也氏
阿僧伽菩薩(右)
伐蘇畔度菩薩像(左)
中村晋也氏
釈迦八相像「成道」

現代の薬師寺へ

薬師寺デジタル絵巻はいかがでしたか。

白鳳の空の下、一人の天皇の願いから、

薬師寺の物語は始まりました。

幾度も炎に包まれ、風に倒れながらも、

人々はその姿を再び立ち上がらせました。

千三百年という長い時の流れの中で、

祈りは形を変えながらも息づき、

いまもなお、伽藍の静けさの中に響いています。

この絵巻物語を見届けた今、

あなたの想いもまた、

時を越えて新たな時代へと

受け継がれていくことでしょう。

令和時代

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薬師寺デジタル絵巻に記載する内容は、令和7年現在の学術研究をもとに作成しております。
またいまだ定説を見いだせていない内容を含みます。

intro

国宝東塔の相輪部の心柱を保護する檫管といわれる部分には薬師寺創建の由来を刻んだ檫銘(さつめい)があります。檫銘には天武天皇・持統天皇による創建と薬師如来の功徳を讃える文章が残されています。
天武天皇・持統天皇が藤原京に創建した薬師寺の旧跡。中世に廃絶し、現在は建物の礎石を見ることができます。(奈良県橿原市城殿町)
薬師三尊像
台座
薬師寺は天武天皇9年(680)に皇后の病気平癒を願われた天武天皇により発願されました。その後、伽藍造営は持統天皇に引き継がれ、持統天皇11年(697)には仏像の開眼が行われたと『日本書紀』は伝えており、この仏像が現在の薬師三尊像と考えられます。『薬師寺縁起』によれば、今の薬師三尊は藤原京の本薬師寺より平城京の薬師寺へ7日間をかけて移座したといわれています。薬師三尊は薬師如来を中尊として、日光菩薩・月光菩薩の両脇侍を従え、大理石でできた須弥壇に安置されており、創建以来の祈りを伝える日本古代彫刻の傑作です。金堂は享禄元年(1528)の兵火で焼失しましたが、薬師三尊は無事で現在まで大切に守り伝えられてきました。
薬師如来が座る台座には葡萄唐草文・花文・四神・異形像など様々な意匠が施されています。上框の側面には葡萄唐草文が巡らされ、上框・台座腰部・下框に楕円や四角、菱形の花文のタイルをはめ込むように配置されています。
中段には四面に6つの窓があり、中から裸形の力神がのぞきます。また南北面の中段には柱状の須弥山(しゅみせん)と堅牢地神(けんろうぢしん)が表現され、上に座る薬師如来を支えています。
下框には四方に中国の霊獣である四神(東=青龍・南=朱雀・西=白虎・北=玄武)が表現されています。ギリシャ・ローマを淵源とする葡萄唐草文をはじめ、これらの図様はオリエントやインド・中国などシルクロード諸国の影響を受けていると考えられ、薬師如来像とともに創建以来の白鳳様式の文化を伝えています。
薬師寺で唯一創建当初の姿を伝える建造物で、記録には天平2年(730)年の建立と伝えられる三重塔です。平城京の中に現存する最古の建造物であり、またわが国の現存する塔のなかでも3番目の古さです。特徴は屋根のほかに各層にひとまわり小さい裳階(もこし)が設けられており、一見すれば6層にも見まがう姿です。白鳳様式を伝えているといわれており、唯一無二の優美な姿をとどめています。さらに、上部の相輪部分にある檫管(さつかん)には創建の由来を記した銘文「檫銘(さつめい)」が刻まれ、頂上部に設置された水煙は天人が舞い降りて讃美する様子が表現されています。
仏足石
仏足跡歌碑
仏足石は、お釈迦様の入滅後、仏像を造らずお釈迦様の足跡などをシンボルとして表して礼拝の対象としていました。仏足石に記された銘文によれば、中国からインドへ遣わされた王玄策が鹿野薗(ろくやおん)にあった仏足跡を写し、それを日本から入唐した黄書本実(きぶみのほんじつ)が長安の普光寺で写し、さらに、平城京右京四条一坊の禅院にあった黄書本実が将来した仏足跡を転写したのが薬師寺仏足石に刻まれた図様だとされています。さらに銘文にはこの仏足石は文室真人智努(ふんやのまひとちぬ)が天平勝宝5年(753)に妻であった茨田郡主(まんだのぐんしゅ)の往生を願って造立され、画師は越田安万(こしだのやすまろ)、書写は神石手(みわのいしで)であったことが記されています。
古代に造立された仏足石は類例が少なく、本像はわが国に現存する最古の仏足石です。
粘板岩製の歌碑で、21首の和歌が漢字の音訓を利用して日本語を表記する万葉仮名によって刻まれています。和歌の多くは仏足跡を石に刻み、仏を慕って礼拝する功徳を歌う仏足石歌の内容になっています。その形式は短歌に七音を加えた五七五七七七 三十八文字という特殊な歌体で、仏足跡歌体と呼ばれています。この仏足跡歌は仏足石を礼拝する儀礼のなかで詠われたものと考えられ、奈良時代の人びとの信仰を垣間見ることができます。『万葉集』と並ぶ奈良時代の文学作品として当時の文化の高さを現代に伝えています。
吉祥天は『金光明最勝王経』などに登場する福徳を授ける天女であり、奈良時代には諸国の国分寺で吉祥天を本尊とする吉祥悔過が行なわれ、広く信仰されていました。薬師寺では宝亀3年(772)から光仁天皇の勅願により吉祥悔過が始められたとされて、かつては正月1日より7日は八幡宮で、8日より14日は金堂で吉祥悔過が行なわれていました。吉祥天女画像はその本尊として造立されたと考えられています。
観世音菩薩は大乗仏教の代表的な菩薩で、鳩摩羅什訳では「観世音」と訳され、また、玄奘訳では「観自在」と訳されますが、一般には「観音」と略して、変化観音ではない姿を「聖観音」と呼びならわします。東院堂の本尊である聖観音菩薩像は古代の観音像として、金堂の薬師三尊像と並んで時代を代表する仏像として知られています。その姿は正面を向いて直立し、左右対称の衣文をもつ姿には飛鳥時代の古い様式が見られる一方、豊かな体つきや伸びやかな表現には新しい時代の特徴があり、造立年代については今も議論が続いています。
弥勒菩薩は、お釈迦様の入滅ののち、五億七千六百万年(一説に五十六億七千万年)を経て、弥勒如来となってこの世に下生し、龍華樹の下で三回の説法をして人びとを救済するといわれています。また法相宗の重要な論疏の一つである『瑜伽師地論』を説いて、唯識の教えを阿僧伽菩薩に伝えたといわれます。大講堂安置の弥勒三尊は奈良時代に作られた丈六金銅仏で、かつては薬師三尊として祀られていましたが、平成5年(1993)から平成9年(1997)に保存修理が行なわれ、平成15年(2003)に大講堂落慶を機に、弥勒如来・法苑林菩薩・大妙相菩薩の弥勒三尊として祀られています。
吉祥天は『金光明最勝王経』などに登場する福徳を授ける天女であり、奈良時代には諸国の国分寺で吉祥天を本尊とする吉祥悔過が行なわれ、広く信仰されていました。薬師寺では宝亀3年(772)から光仁天皇の勅願により吉祥悔過が始められたとされて、かつては正月1日より7日は八幡宮で、8日より14日は金堂で吉祥悔過が行なわれていました。吉祥天女画像はその本尊として造立されたと考えられています。
休ヶ岡八幡宮に祀られる八幡三神像は、八幡神が僧形で表現される神仏習合の象徴的な姿です。僧形八幡神像は神功皇后・仲津姫命とともに休ヶ岡八幡宮が創建された寛平年間(889~898)に造立されたと考えられ、神像彫刻では最古の作例のひとつです。八幡三神像は40㎝に満たない像でありながら堂々とした姿です。それぞれ部分的に別材を矧ぐものの一材から彫り出されており、9世紀の仏像彫刻と共通した表現が見られます。
天禄4年(973)2月27日、食堂の北側の十字廊から出火し、講堂・三面僧坊・回廊・経蔵・鐘楼・中門・南大門などが焼失しましたが、金堂・東西両塔は無事でした。『薬師寺縁起絵巻』には懸命に仏像・宝物を救出し、消火を試みる人びとと、伽藍を護ろうとする護法神がみえます。
慈恩大師はその名を基といい、唐の貞観6年(632)に生まれ、玄奘三蔵の弟子として出家し、経典翻訳に従事しました。また、玄奘三蔵から教えを学び、25部120巻に及ぶ注釈書を著して「百本の疏主」とも称されます。慈恩大師は法相宗の教えを大成したことから宗祖として位置付けられ、薬師寺では慈恩大師の忌日法会である慈恩会が康平4年(1061)に始められたとされ、本像もその頃の造立と考えられています。
日本三大会(南京三会)と呼ばれた法要の一つが最勝会です。国家安泰や五穀豊穣などを祈る法要であり、また国家試験の場でもありました。
修二会とは奈良の大寺が国家の繁栄と五穀豊穣、万民豊楽などを祈る春の行事です。十種類の造花を飾ることから「花会式」と呼ばれます。
西塔にはお釈迦様の生涯をあらわした釈迦八相像が塑像で表現されていましたが、1528年の享禄の兵火で焼失しました。安置されていた塑像群の一部は火災により焼きしめられ、断片ですが残ることができました。これを参考に中村晋也氏により金銅像として釈迦八相像は復興されることになりました。
享禄の兵火の直後から金堂の再建が試みられ、仮屋は1557年ごろまでにできあがります。その後、大和郡山城主増田長盛公により500石の寄進をうけて瓦葺きの仮金堂に改められました。
薬師寺の鎮守である休ヶ岡八幡宮は平安時代の寛平年間(889~898)に薬師寺別当栄紹が勧請して創建されました。かつて、大安寺の僧、行教が宇佐八幡宮から八幡神を勧請した際、八幡神がこの岡で休息された旧跡であることに因んで休ヶ岡(やすみがおか)と呼ばれています。『今昔物語集』には天禄4年(794)に薬師寺が火災に遭った際、休ヶ岡八幡宮より八幡神の使いである鳩が飛び来て火災から伽藍を守ったという伝承が伝わっています。現在の社殿は豊臣秀頼の寄進によって慶長8年(1603)に再建されたもので、本殿には八幡神が僧形で表された八幡三神像、が南北脇殿には22体の神像が板絵に描かれた板絵神像が祀られています。
江戸時代の薬師寺を描いた図。享禄の兵火で焼失した西塔や講堂は見えず、他には小さなお堂が建ちならびます。今日と変わらないお堂は中央の東塔とその右に位置する東院堂などわずかです。(『大和名所図会』巻3部分・1791年)
1807年に薬師寺が提出した伽藍修復と再興の願書の控えです。痛みが激しかった東塔は最初に描かれていて、相輪が大きく傾いた痛々しい姿です。すき間から流れ込んだ雨水が初層まで及んでいることも記されています。(『御尋ニ付奉書上候要用之願書控』部分)
享禄の兵火で焼失した講堂の再建は江戸時代の薬師寺にとって悲願でした。1807年に講堂再建を幕府に願い出ており、各地で行った講堂再建の勧進は完成まで45年を要しました。
東院堂は、東禅院とも呼ばれ、長屋王の妃であった吉備内親王が母の元明天皇のために建立したと伝わります。かつては正堂・細殿・僧房の3棟が立ち並んでいたと考えられますが、現在の建物は弘安8年(1285)に再建されたものであり、鎌倉時代の代表的な仏堂建築です。内部は伝統的な和様建築ですが、外面は柱に長押(なげし)を用いないで貫(ぬき)を通し、桟唐戸や頭貫に木鼻を用いることなど、中世の新しい様式を取り入れていることが分かります。再建時は南向きでしたが、享保18年(1733)に西向きに変更する修理が行われています。
四天王とは仏教世界の中央にそびえる須弥山の中腹で四方を守護する天で、東方を持国天、南方を増長天、西方を広目天、北方を多聞天が守護しています。東院堂安置の四天王像は鎌倉時代に再建された東大寺大仏殿の四天王像を写した、いわゆる大仏殿様の四天王の優作です。なお、多聞天の台座裏には造立された時の銘文があり、それによれば正応2年(1289)に法眼隆賢と駿河法橋定秀によって作られ、多聞天と持国天の彩色は興福寺の観舜房法橋慶允、増長天と広目天の彩色は伊賀法橋有儼によって行われたことがわかっています。
1872年に行われた近代最初の文化財調査である壬申検査の際に撮影された古写真には、軒先に支え棒がされている東塔が記録されている。
明治・大正期の薬師寺を南西側からみた風景。右から南門と東塔、中央の木陰の後ろに旧金堂が見える。左には不開門と仏足石・仏足跡歌碑を安置していた仏足堂の屋根が写る。薬師寺が発行していた『藥師寺繪葉書』第壹輯より。
1897年奈良県生まれ。1904年に法隆寺に入山し、佐伯定胤和上に師事。宗教大学卒業後、東京帝国大学文学部で学び『大正新脩大蔵経』『仏書解説大辞典』等の編纂に参加。1939年に薬師寺管主、1941年に法相宗管長に就任、1967年に勇退して長老となる。戒律を遵守して肉食妻帯せず、唯識教学に精通して国内外で講義を行い、多くの弟子を育成し、白鳳伽藍復興の軌道をつけた。失われつつあった奈良の文化財の保護に努め、平城宮跡国有化にも尽力した。1978年遷化。
1924年大阪府生まれ。1935年薬師寺に入山し橋本凝胤に師事。1949年薬師寺副住職に就任し、 薬師寺を訪れる修学旅行生に面白くわかりやすい語り口で教えを説いた。1967年に管主、1968年法相宗管長に就任。管主晋山の際に金堂復興を発願し「百万巻写経による金堂復興勧進」を始めた。金堂・西塔・中門などを復興し、創建当時の姿をよみがえらせた。1998年遷化。
創建当初の金堂は瑪瑙の蔓石、瑠璃の地敷、蘇芳の高欄、紫檀の天井障子などを用いた二重二閣の建物であったとされています。天禄4年の火災をまぬがれたものの、康安元年(1361)には地震で上層が傾き、文安2年(1445)には大風で倒壊、再建が進められていた金堂も享禄元年(1528)の兵火によって焼亡してしまいました。焼亡後、規模を縮小した金堂の再建が進められ、慶長5年(1600)には大和郡山城主の増田長盛によって瓦葺に改められました。
創建当初の金堂を復興することが薬師寺の悲願でした。昭和43年(1968年)、お写経による金堂復興を高田好胤和上が発願し、昭和51年(1976年)に白鳳様式の金堂が落慶しました。金堂上層には納経蔵があり、全国から納められたお写経が安置されています。
東西に塔が並ぶ伽藍形式は薬師寺式伽藍と呼ばれ、薬師寺の伽藍の特徴です。創建当初、西塔は東塔と並び立ち、塑像の釈迦八相像が祀られていました。西塔は享禄元年(1528)の兵火によって焼け落ちてしまいました。西塔は長らく再建出来ませんでしたが、昭和9年(1934)および昭和51年(1976)に発掘調査が行なわれ、創建当初の規模が判明しました。さらに、東塔を調査して西塔復興の設計を進め、昭和56年(1981)には453年ぶりに西塔が落慶しました。壁には連子窓が取り付けられ、風鐸や飾り金具が復元されるなど、古代建築を忠実に復元しています。
大講堂は、僧侶の教学研鑚のための法会を厳修するための建物で、創建時は持統天皇6年(692)に持統天皇が天武天皇のために造顕した阿弥陀繍仏像が安置されていたと伝わります。また平安時代の天長7年(830)には南京三会の一つに数えられる最勝会が始められ、大講堂は薬師寺における学問の中心でした。しかし、天禄4年(973)に焼失し、その後、再建されましたが、再び享禄元年(1528)の兵火によって焼亡しました。講堂を再建すべく勧進活動が長く続けられ、嘉永5年(1853)に創建当初の半分の規模で講堂が再建されました。薬師寺では講堂を創建当初の姿に復元することを発願し、平成15年(2003)に現在の大講堂を復元し、途絶えていた最勝会を再興しました。
食堂は、僧侶が斎食を摂るための建物で、発掘調査によって創建時の食堂は300人が一堂に会することができる規模であったことが判明しています。食堂は天禄4年(973)に焼亡し、その後、寛弘2年(1005)に再建されましたが、いつの時代か再び廃絶してしまいます。学術研究による外部設計と伊東豊雄氏による内装設計によって平成29年(2017)に復興され、阿弥陀三尊像が安置されていたことにならって田渕俊夫画伯により「阿弥陀三尊浄土図」が祀られ、人びとが集う新たな建物として再建されました。
玄奘三蔵院
玄奘三蔵像
玄奘三蔵(602~664)は、唐の貞観3年(629)に中国からインドへ求法の旅をされ、貞観19年(645)に帰国し、生涯をかけて持ち帰った経典のうち75部1335巻を漢訳しました。訳経のかたわら、慈恩大師基をはじめとした多くの弟子たちに法相宗の教えを伝えました。玄奘三蔵のもとには法興寺(飛鳥寺)の遣唐僧 道昭僧都が白雉4年(653)に入唐して師事して、日本に法相宗の教えを伝えました。玄奘三蔵は麟徳元年(664)に玉華宮で入寂し、長安郊外の興教寺に埋葬されました。その後、遺骨は度重なる戦乱によって行方不明となっていましたが、昭和17年(1942)、南京にて偶然にも玄奘三蔵の頂骨(頭部の遺骨)を納めた石棺が発見され、日本へも分骨されました。玄奘三蔵・慈恩大師・道昭僧都の法燈を伝える薬師寺では、頂骨を分骨いただいて平成3年(1991)には建立した玄奘塔に奉安し、平成12年(2000)には平山郁夫画伯による「大唐西域壁画」が奉納されました。玄奘塔には玄奘三蔵が成し遂げた求法の旅の決意を表す「不東」の2文字が高田好胤和上によって掲げられています。
玄奘三蔵院内の赤と緑の2階建ての塔の中にある玄奘三蔵像は、20世紀の有名な仏像の彫刻家である大川逞一によって作られました。彼は右手に筆を持ち、左手には経典を持っています。このことから、この彫刻がインドでの17年に渡る旅と調査を終えた後、中国に戻り仏教経典の翻訳を行なっている玄奘を表現したものです。
彫刻の下には、1940年代に中国から持ち込まれた玄奘三蔵の頭蓋骨の断片が祀られています。元々は東京の北、埼玉県の寺院に奉られていましたが、後に薬師寺に移されて1991年に仏塔内に祀られました。
玄奘塔正面にかかる額には「東へ決して戻らない」という意味で「不東」と書かれています。これは、インドで経典を見つけ確保するまで中国には決して戻らないという玄奘の誓いに基づくものであり、忍耐を象徴するモットーのようなものになっています。
確かに、玄奘は旅の途中で何度も任務を完了することができないのではないかと疑ったと言われています。彼は一人で旅をし、道から逸れてしまうことも多かったが、途中で自分の間違えに気付き、それらを修正するよう努めました。最後に、彼は成功し、逆境に直面した彼の忍耐の物語は、仏教の教えと、悟りを得るために努力する人々が直面する困難の象徴としばしば見なされます。
日本三大会(南京三会)と呼ばれた法要の一つが最勝会です。 国家安泰や五穀豊穣などを祈る法要であり、また国家試験の場でもありました。
奈良時代の仮面舞踏劇 伎楽。東大寺大仏開眼会をはじめ奈良の大寺では伎楽がしばしば演じられ、薬師寺では孝謙太上天皇が行幸された際、金堂前庭で伎楽が行われています。平安時代以後途絶えてしまいましたが、東大寺昭和大修理落慶法要を機に復元され、薬師寺では1992年から玄奘三蔵の旅路をテーマにした創作伎楽『三蔵法師求法の旅』が上演されています。
玄奘三蔵院にある大唐西域壁画殿には平山郁夫画伯によって奉納された「大唐西域壁画」が安置されています。東側から「明けゆく長安大雁塔」、「嘉峪関を行く」、「高昌故城」、「西方浄土須弥山」、「バーミアン石窟」、「デカン高原の夕べ」、「ナーランダの月」の7場面を通じて玄奘三蔵が趣いた中国からインドへの求法の旅を辿ります。また天井には月と太陽と星空が美しく彩られた「絲綢之路群青天空」が輝きます。平山画伯はこの壁画を約20年かけて制作され、玄奘三蔵に思いを馳せて何度もシルクロードへ取材に出かけられました。中学3年生の時、広島で原爆投下を体験した平山画伯は、来たる21世紀は平和の世紀であることを祈り、平成12年(2000)12月31日に奉納開眼されました。
食堂の壁面には田渕俊夫画伯によって約50mにも及ぶ壁画「仏法伝来の道と薬師寺」が奉納されました。インドから中国への求法の旅を描いた平山郁夫画伯の「大唐西域壁画」に続いて、田渕画伯は中国から日本への仏教伝来を描かれました。それは14場面にわたって中国を遣唐使船が旅立ち、日本に到着し、飛鳥京から藤原京、平城京へと仏教文化が花開くようすが描かれています。
法相宗の教理「唯識」を学ぶための学寮である慈恩殿を荘厳するため、細川護熙氏が約6年をかけて描かれた障壁画「東と西の融合」を奉納されました。大小あわせて約157mに及ぶ障壁画には東西文化の交流が描かれ、その画法は和紙に白土を塗り、その上にフレスコを用いて描かれています。中央の仏間に菩提樹を描き、その周囲には法相宗祖である慈恩大師を中心とした高僧たち、天を舞う天女や迦陵頻伽、シルクロード各国の人々が集って仏の教えを賛美する様子が表現されています。
阿僧伽(アサンガ・無著)と伐蘇畔度(ヴァスバンドゥ・世親)は4~5世紀に活躍した北インドの僧で、大乗仏教の唯識の教えを大成した人物です。薬師寺では弥勒如来の傍に阿僧伽・伐蘇畔度の両像を造立することを発願し、中村晋也氏がパキスタンに趣いて取材し、平成19年(2007)に制作奉安されました。阿僧伽菩薩像は肩にストゥーパ(仏塔)を乗せた姿、伐蘇畔度菩薩像は貝葉経を持つ姿で、貝葉経の上には弥勒如来の菩提樹である龍華樹の花が飾られています。
かつて、東西両塔にはお釈迦様のご生涯を8場面に分けた釈迦八相像が安置されていました。しかし、塑像であったために風雨によって東塔の四相像は破損し、正保元年(1644)に取り払われ、現在は塑像の心木と残欠が遺されています。また、西塔の四相像は享禄元年(1528)に兵火によって焼失してしまい、昭和51年(1976)の西塔跡の発掘調査の際に、多量の塑像片が出土しました。
これらの調査に基づいて釈迦八相像を復興すべく、中村晋也氏によって平成27年(2015)に西塔四相像、令和5年(2023)に東塔四相像が造立され、およそ500年ぶりに釈迦八相像を安置されました。