十大弟子の一人に富楼那と言うお弟子様がおられました。
 雪山せっせん(ヒマラヤ山)で修行を重ねていた富楼那は、お釈迦様が成道されたことを聞き、ヴァーラーナシーの鹿野苑ろくやおんでお釈迦様の弟子となりました。十大弟子中では最古参であり、お弟子様の中でも、弁舌べんぜつに優れていたために説法第一せっぽうだいいちと呼ばれています。
 富楼那はお釈迦様に教えを請いました。「独り静かにすまい、放逸ほういつ(気ままに遊び、等閑なおざりとなって怠ける事)を離れて勤め励みたいと思います」。お釈迦様は「眼に見える形、耳に聞こえる声、鼻で嗅ぐ香り、舌で味わう味、身に触れる肌触り、全て心地よく意に適い、欲を引き起こすことがあります。もしそれらを喜び好み執着すれば、歓びが起きます。歓びの原因は苦しみでもあります。又それを喜ばず好まず執着しなければ、歓びは起きません。歓びが起こらぬことは苦しみの起らぬことです。富楼那よ、この教えを聞いて何れの国で修行するつもりですか」。「お釈迦様の教えを受けてスナーパランタ国に行こうと考えています。」「富楼那よ、スナーパランタの人々は兇猛たけだけしく疎暴あらあらしい。もし彼らが汝をののしはずかしめたならば、如何しますか」。「私は、スナーパランタの人々は善良であるから、手を挙げて打つ事はないと信じます」。「もし手を挙げて打ったとしたならば、如何しますか」。「スナーパランタの人々は善良であるから、土塊を投げ、棒で打つ事はないと信じます」。「もし土塊を投げ、棒で打ったとしたならば、如何しますか」「スナーパランタの人々は善良であるから、剣をもって打つ事はないと信じます」。「もし剣をもって打ったとしたならば、如何しますか」。「スナーパランタの人々は善良であるから、命を奪う事はないと信じます」。「もし命を奪おうとしたならば、如何しますか」。「今迄であれば、この穢れた身体と命をかばうでしょうが、もしスナーパランタの人々が命を奪う様にしたならば、このなし難い死を得る事が出来ると思います」。お釈迦様は「善き哉、善き哉。富楼那よ、汝はこの自制心と寂静とを具えていて勤め励んでいるので、スナーパランタへ行くがよい」。
 許しを得た富楼那は、スナーパランタの人々にお釈迦様の教えを弘め、大勢の信者が生まれました。間もなく富楼那は涅槃の雲に隠れました。
 スナーパランタの人々はお釈迦様のもとに赴き、富楼那の死を告げました。富楼那の死を聞いたお釈迦様は、「富楼那は賢者でありました。法を守り私を煩わす事はありませんでした。富楼那こそ実に涅槃と言うに相応しい生涯です」。
 このお話は『魔嬈まじょうらんきょう』に登場します。

合 掌



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